ダライ・ラマ後継議論へ
チベットからインドに亡命しているチベット仏教の最高指導者のダライ・ラマ14世の後継者について、今月の末にも、チベット仏教の各派の高僧が、亡命政府のあるインド北部の「ダラムサラ」に集まり、後継者の選出方法の議論を始める計画を明らかにしました。
近年、ダライ・ラマ14世の82歳という高齢と体調を不安視する声があり、注目が集まっていました。
28日までの共同通信のインタビューに応じた、亡命政府の「ロブサ・ンセンゲ」首相がこのことを明らかににました。
ダライ・ラマとは
ダライ・ラマとは、1642年に発足したチベット政府の元首の地位の呼称であり、チベット仏教の最高指導者の呼称でもあります。
このチベット政府の元首である「ダライ・ラマ」の地位は、世襲や選挙で選ばれるものではなく、「ダライ・ラマ」と呼ばれた人物が亡くなると、「ダライ・ラマ」の生まれ変わりを探し即位させる「輪廻転生制度」という独特のものです。
先代の死亡から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位と政務を代行します。
「輪廻転生制度」で「ダライ・ラマ」を選ぶには、先ず、先代の遺言、遺体の状況を調べます。
次に、神降ろしによる託宣、パルデン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿る湖聖なる湖「ラモイ・ラツォ湖」の観察を行います。
次に、僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言を行います。
この予言を元にして、「ダライ・ラマ」が輪廻転生した思われる人物に会い、先代の遺品を認識できるかどうかなどを確認して、ダライ・ラマの生まれ変わりかどうかを確認し、確認されればダライ・ラマの生まれ変わりと認定されるのです。
私たちの常識では、考えられない方法で、チベット政府の元首であり、チベット仏教の最高指導者である「ダライ・ラマ」は選ばれてきたのです。
何故このような制度が400年近くも守られたのでしょか。
それは、チベット仏教では、チベットは全てが、観音様の世界であり 観音様が人びとを幸せに導く国だと位置づけられ、「ダライ・ラマ」を観音様の生まれ変わりだとしていることにあります。
また、チベット仏教は、人間が死んだら、来世も同じように人間に生まれ変わるとは限らず、生きている所業の良し悪しにより、「神」「人間」「非神」「地獄」「餓鬼」「畜生」のいずれかに来世は生まれ変わるとしているのです。
例えば、現世では人間でも、所業が悪いと来世は、動物・鳥などに生まれ変わるかもしれないということを教義といているのです。
その一方、悟りを開いた菩薩は、次も人間に生まれ変わり、すべての生きとし生けるもののために働き続けると信じられています。
チベットの人々は、このようにして自由に自分の力で人間に生まれ変わることのできる者のことを「化身)」、又は「輪廻転生者」と呼んでいます。
このような「ダライ・ラマ」は観音菩薩の輪廻転生者と信じる、チベット人の強い信仰が400年も近くも、「輪廻転生制度」を守ってきた大きな要因ようです。
今でも、中国共産党によるチベット教への強い迫害がありますが、チベット人のほとんどは、「ダライ・ラマ」が浄土へと導き、救済するために生まれ変わった人物であると信じているのです。
中国による不当な「チベット」侵略
1949年(昭和24年)に蒋介石の国民党を台湾に追いやり中国本土の覇権を握った毛沢東が率いる中国共産党・中華人民共和国は、「もともとは中国だった」という強引な理屈と、強大な軍事力で独立国であるチベットを侵略しました。
中国本土の覇権を握った中国共産党は、中国の全土で共産主義による急速な「民主改革」を進めていました。
独立国であるチベットも「民主改革」を進めようとしたのです。
チベットが独立国であることを懸念した中国は、チベット政府と「17条協定」を締結し、チベットに改革を強制しないと約束を交わしました。
しかし、協定を締結してから、現在にいたるまで、中国がやったことは「17条協定」の内容とは異なることばかりでした。
仏教国であるチベットの95%以上の寺院を壊し、多くの僧侶を還俗させ、経典を焼き、仏像を持ち去り、金属製のものは溶かし再利用し、木製のものは焼却したのです。
また、寺院を中心とした社会のシステムを破壊し、遊牧民から放牧地を取り上げて定住させきました。
明らかに、協定に違反した行為を 中国は「封建農奴制からの解放」「民主改革」などと正当化した理屈で、600万人のチベット人が住んでいるところに、8万以上の人民解放軍を送り込み、求められていない改革を無理矢理強引に進めたのです。
穏やかな仏教徒であるチベット人ですが、こうまでされては、黙ってはいられなくなったのです。
中国への抵抗運動が、中国に近い東チベットで起こり、遂には、チベット全土に抵抗運動が広まったのです。
チベット人は、地の利を求め山間部に立てこもり、ゲリラ戦を展開して中国軍に抵抗を続け、怒りが頂点に達した1959年(昭和34年)に首都のラサで市民による大規模な反乱が起こりました。
この反乱は「チベット動乱」と呼ばれています。
しかし、中国軍の圧倒的な武力にチベットの人達は、鎮圧されてしまいました。
ダライ・ラマ14世は、この「チベット動乱」で120万人を超える犠牲者が出たことを憂い、戦いを避けるため、インドへ亡命したのです。
チベット亡命政府の樹立とその活動
亡命したダライ・ラマ14世は、1959年(昭和34年)年に、インド北部のスームリに亡命政府を樹立しました。
その後ヒマチャルプラデシ州のダラムサラに移転しました。
正式な名称は、「中央チベット政権 CTA」です。
「CTA」はチベット人の自由を求める戦いで指導的役割を果たし、13万人に及ぶ亡命チベット人が暮らしています。
「CTA」を取り巻く国際情勢は、1989年(平成元年)には、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され、ダライ・ラマ14世が、ノーベル平和賞を受賞したことにより、好意的なムードになりました。
しかし、ノーベル平和賞の受賞に対し、中国政府はいまだに、無視を決め込み有様です。
この受賞を弾みにして、「CTA」は地道な活動を世界に展開しました。
1999年(平成11年)4月23日に行われた、第55回国連人権委員会で「CTA」には不本意な「中国不信任案を提議しない」という動議が採択されました。
しかし、この会議では「ドイツ」「アメリカ合衆国」「ノルウェー」「アイルランド」「スイス」「カナダ」等の政府が、チベットの人権問題を取り上げようとしていたのです。
この事実取り上げようとした国の理解と、「CTA」の活動の成果により、国連の様々な会議に「CTA」は、出席することが可能になりました。
国連条約を監視する国連の機関で、チベット亡命政権代表団が、中国が署名した条約の義務を怠っていないかを調査することが可能にもなったのです。
「CTA」は大使館とも言える代表部事務所を「ニューデリー」「カトマンズ」「ジュネーブ」「ワシントン」「東京」「ロンドン」「ブリュッセル」「キャンベラ」「モスクワ」「台北」に設置し、活動を行っています。
中国のダライ・ラマ15世擁立への警戒
1995年(平成7年)に、ダライ・ラマに次ぐ「パンチェン・ラマ10世」の後継に、中国とダライ・ラマ14世が、それぞれ別の少年を選んで対立しました。
中国は、自らが選んだ少年の即位を強行しました。
チベット側が選んだ少年は、原因ははっきりしませんが選ばれた直後に行方不明になりました。
行方がわからないので、「CTA」のある、ダムサラには行方を捜すポスターが現在も、あちこちに貼られています。
ダライ・ラマの後継者は、「輪廻転生制度」で選ばれますが、先代が亡くなってから、即位をするには数年から10年程度の時間がかかる可能性があります。
ダライ・ラマ14世は、中国がこの即位まで空白の時間を利用して、「パンチェン・ラマ10世」の後継の再現を画策することを警戒し、近年は「輪廻転生制度」の廃止を含めた発言を繰り返すことで中国をけん制してきました。
この意向を受けて、「ロブサン・センゲ」首相が「2018年か2019年初めに高僧が集まる会議を開き、後継の問題を議論する」という表明をするに至ったのです。
まとめ
現体制下の中国による人権弾圧絶対に許されません。
我々が住んでいる、日本という国が、いきなりアメリカの州の一部となることが想像できるでしょうか。
そんなことが、チベットでは現実に起きたのです。
中国は、チベット人の国民性、文化、宗教観を破壊し、現在も罪なき善良なチベット人を迫害しています。
中国政府は、チベットばかりでなく、2010年(平成22年)にノーベル平和賞受賞をした、「劉暁波」氏を授賞式に参加させませんでした。
そればかりか、国際社会の「劉」氏を国外で治療すべきとの声に背を向け、死に追い込んだのです。
このことは、基本的人権のため非暴力的な闘いでノーベル平和賞を受賞した国際的に評価の高い「劉暁波」氏に対しての明らかな口封じです。
まさに、死人に口なしとはこのことです。
国際世論にも耳を貸さす、人権の無視をし続ける、中国を大国として、このまま、のさばらしていいものでしょうか。
中国共産党、及び中華人民共和国が、本当の意味の大国になるには、まだ時間がかかる思いがします。
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