韓国の世界遺産、朝鮮半島の古代王朝:百済歴史地域をクローズアップ

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韓国百済歴史地域

今回ご紹介するのは世界遺産、大韓民国の「百済歴史地域」です。

皆さんは百済歴史地域についてご存じでしょうか。

 

百済歴史地域は、百済考古遺跡と呼ばれることもある遺跡群の名前です。

百済(ペクチュ)というのはかつて挑戦半島の南西部にあった王国の名前で、新羅(シルラ)、高句麗(コクリョ)とともに朝鮮半島の派遣をかけて争ったことは日本でも有名です。

 

特に、新羅、高句麗、百済の三国が戦っていた時代を朝鮮三国時代といいます。

近年では、韓流ドラマが日本でも広く放映され、その題材ともなっていましたので、名前を聞いたことがある方も多いのではないかと思います。

 

百済(ペクチュ)は次第に高句麗、新羅に押され、首都がどんどん南側に移っていきました。

ユネスコ世界遺産の百済(ペクチュ)歴史地域は百済(ペクチュ)の首都が置かれていた3つの都市に点在する遺跡群の総称です。

 

そんな百済(ペクチュ)歴史地域の魅力について、歴史を踏まえながらご紹介していきたいと思います。

 

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百済(ペクチュ)の歴史

百済(ペクチュ)の建国時期は現在でもはっきりしていません。

日本の歴史学会では、馬韓諸国と呼ばれる朝鮮半島に多数存在した国の中の伯済国を始まりとして、4世紀前半ごろまでにソウルを中心として国が成立していたという見方が一般的となっています。

 

日本のこの認識は、三国志の記述に基づいているのですが、韓国の歴史学会では西暦1143年に編纂された三国史記の記載に基づいた学説が有力となっており、紀元前18年に建国されたという見解が一般的です。

 

ただし、近年では3世紀後半の建国という学説も広く支持を集めており、近い将来にはこちらの学説が定着する可能性もあります。

 

 

どの説を取った場合でも、本格的な国家の成立は4世紀中盤以降だろうという点では見解は一致しています。

 

初期の百済(ペクチュ)の都は漢城に置かれていました。

漢城は現在のソウル周辺の事です。

 

日本での三国史記は、歴史書というよりは後世の創作や伝説が数多く盛り込まれている偽書であると見られているため、実際にあった出来事をその記述の中から見つけだすことは、不可能ではないかと言われています。

 

こちらの記述に基づけば、西暦371年に百済(ペクチュ)は高句麗(コクリョ)の平壌城を攻略し、故国原王を敗死させました。

 

実際に、この頃から百済(ペクチュ)という名前が中国側の資料にも登場し始めるため、この出来事は実際にあったと見られています。

 

 

平壌攻略の翌年西暦372年には東晋王朝に入貢し、百済(ペクチュ)王は鎮東将軍、楽浪太守として冊封されました。

また、日本書紀の記述によれば同時期に百済(ペクチュ)と倭との間で交易がはじまり、七支刀と呼ばれている儀礼用の刀剣が、倭に贈られたこともわかっています。

 

この時代の百済(ペクチュ)は、周辺地域ではかなり大きな勢力となっているため、王権が強化されたのもこの頃ではないかと言われています。

 

漢城に首都が置かれていた時代の百済(ペクチュ)は、より北方の高句麗(コクリョ)と長年に渡って戦争を繰り広げました。

初めは優位に戦争を進めていましたが、西暦391年に高句麗(コクリョ)に広開土王が即位すると、瞬く間に百済(ペクチュ)に奪われた領土を回復し、即位からわずか5年後の西暦396年には大半の地域を奪還することに成功しました。

 

次第に高句麗(コクリョ)に圧倒されるようになり、この状況を打開するため海を越えて、倭に救援を求めます。

 

西暦397年には王子が倭に人質として出され、その見返りとして倭から援軍が派遣されました。

この時には倭が朝鮮に出兵する見返りとして、百済(ペクチュ)と新羅(シルラ)を服属させたという文献が残されていますが、韓国学会ではこれを認めないという見解が一般的です。

 

真偽ははっきりとはしていませんが、いずれの説をとったにしても、この三カ国の間で激しい戦いがあったことは間違いないでしょう。

 

西暦455年以降は、高句麗(コクリョ)の南下が一層激しくなり、百済(ペクチュ)は新羅(シルラ)と手を結び、倭、北魏にも救援を要請しましたが支援は得られず、西暦475年には首都漢城が陥落しました。

 

首都陥落のタイミングで、王子である文周は新羅(シルラ)への外交使節に加わっていたため、難を逃れました。

 

文周王子が国に戻った時には、既に首都は陥落し、国王も行方不明となっていました。

 

 

彼は新王として即位し、都をより南方の熊津に遷都して百済(ペクチュ)を再興しました。

この時に高句麗(コクリョ)の支配から逃れた多数の貴族や有力者たちが、新しい都に集まりました。

 

文周王は王族を文官の最高位に、最も有力な貴族、解氏を武官の最高位に付けましたが、後に解氏によって暗殺されました。

 

文周王の後は王子の三斤が継ぎましたが、若干13歳だったため、政権は解氏が掌握するかと思われました。

しかし、解氏は次席の武官とともに反乱を起こしたため討伐されます。

 

この時の反乱鎮圧のために出動した国王軍の兵力は、わずか2500人ほどと歴史書にも記載されており、これが正確な人数ではなかったとしても、漢城を追われた百済(ペクチュ)の衰退ぶりが浮かび上がってきます。

 

熊津時代の終盤には、武寧王という優れた国王が出たため一時的に、百済(ペクチュ)の国力は回復しましたが、衆寡敵せず高句麗(コクリョ)に対して優位に立つようなことはありませんでした。

 

中国を統一した隋の力を借りて、高句麗(コクリョ)に対して挟撃を加えましたが、高句麗(コクリョ)軍は隋の遠征軍を再三退けたため、この作戦は失敗に終わりました。

 

この後百済(ペクチュ)は新羅(シルラ)と結び高句麗(コクリョ)を攻めたり、高句麗(コクリョ)と結んで新羅(シルラ)を攻めたりと、権謀術数の限りを尽くして朝鮮半島の支配を目指しますが、最終的には新羅(シルラ)の援軍として、半島に上陸した唐王朝の10万人を越える大軍の前に成す術なく滅亡してしまいました。

 

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代表的遺跡

 

武寧王陵

かつての百済(ペクチュ)の都熊津だった公州市で、西暦1971年に手つかずの墳墓が発見され、武寧王の陵墓であることが判明しました。

 

この陵墓は、長い間地中に隠されていたことから、盗掘などの被害にもあっておらず、陵墓内から発見された埋葬品によって武寧王の命日がわかるなど、貴重な信頼度の高い資料となっています。

 

また、この陵墓には王妃も併せて埋葬されており、出土した3000点を越える美術品、調度品などは歴史的にも文化的にも大変価値が高く、百済(ペクチュ)王の生活水準や周辺諸国との交易状況などはここから判明したものもあります。

 

上党山城

韓国の清洲市近郊にある山の頂上にある山城が上党山城です。

 

外周約4キロの城壁に囲まれた広大な城の築城時期は判明していませんが、三国史記の記述によれば1世紀から2世紀頃に、キムユシン将軍の息子が築城したという記載があります。

 

城壁の内部には集落があり、飲食店やお土産を買える店などがあります。

路線バスで訪れるのが一般的ですが、登山道を利用して徒歩で訪れる方も多く、その場合は登山道の入り口から約90分の道のりとなります。

 

夢村土城

韓国の首都ソウルの南東にある土城の遺跡が夢村土城です。

 

外周延長約2キロのこの城は土塁で囲まれ、一部には柵が設けられていたことも判明しています。

この遺跡からは、楽浪郡や高句麗(コクリョ)のものと同じ瓦や中国南方で生産されていた青磁器、金属器などが出土しており、他の遺跡とともに百済(ペクチュ)の王都漢城を後世していたのではないかと思われています。

 

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お役立ち情報

こちらでは、百済(ペクチュ)歴史地域観光に役立つ情報や豆知識をお伝えします。

 

階伯 (ケベク)

こちらは韓流ドラマのタイトル名です。

百済(ペクチュ)の滅亡にあたって、最後まで奮戦した将軍階伯の物語なのです。

 

韓流ドラマは時代考証がおかしいと言われてはいますが、歴史の流れの大筋までは変更していませんので、百済(ペクチュ)についてドラマを通して理解を深めることができるのではないかと思います。

 

どのような形であっても、百済(ペクチュ)についての前知識がある状態と無い状態では、やはり遺跡を訪れた時の感慨に違いがあると思いますので、韓流ドラマが苦手でない方はご覧になってはいかがでしょうか。

 

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最後に

少し歴史的になってしまいましたが、いかがでしょうか。

 

これをきっかけに、百済(ペクチュ)歴史地域に興味を持って頂けたなら幸いです。

 

隣の国でありながら、朝鮮半島の歴史よりも中国やヨーロッパの歴史の方が詳しい方が多いのですが、百済(ペクチュ)は、朝鮮半島の古代王朝の中でも日本と最も深い関わりを持っていた国です。

 

日本にも仏教や漢字の伝来など、中国の様々な文化や学問、宗教などが百済(ペクチュ)を通じて伝わってきており、現在の日本文化を形成する上で非常に重要な役割を果たした国が、百済(ペクチュ)だったのです。

 

韓国へのご旅行をお考えでしたら、百済歴史地域へのご訪問もご検討下さい。

 

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