また一人昭和の偉大な政治家「野中広務」氏がお亡くなりになりました

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昭和の偉大な政治家「野中広務」

2018/01/26、自民党の元幹事長「野中広務」氏が逝去されました。

小渕内閣の官房長官を務め、森内閣の時に、自由民主党の幹事長を務め、「加藤の乱」を鎮圧して「政界のスナイパー」と異名を取り、「陰の総理」とまで言われた実力者だった「野中 広務」氏が、26日午後、京都市内の病院で死去しました。92歳でした。

 

 

2017年11月27日午後9時頃、京都市下京区のホテルで食事を取った後、気分が悪いと訴え座り込み、病院に救急搬送されて入院をしていたとのことです。

 

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野中広務 とは

25歳で京都府園部町の町議、33歳で府園部町町長、41歳京都府議、53歳で旧都府の副知事となり、57歳でようやく衆議院議員になった、地方政治からのたたき上げの遅咲きの政治家でした。

 

社共革新の京都府の「蜷川虎夫」知事の府政と和戦両様渡り合った議会経験と、たたき上げの手腕を耳にした当時の自民党首脳が、国政への出馬を求めたようです。

 

1994年(平成6年)6月30日に衆議院当選5期目で、自社さ連立政権の村山内閣の自治大臣・国家公安委員会委員長として初入閣を果たしました。

 

在任中の1997年(平成7年)1月17日に「阪神淡路大震災」が起こり、その地区は大きな被害を受けました。

この時、野中氏は自治大臣として、被災地対策の陣頭指揮を執り、その後の復興に尽力しました。

 

 

「事実上の個人補償で、被災者への私有財産につながるので、公費を出すことはできない」と被災者に最大100万円(当時)を支給する「被災者生活再建支援法」の成立を認めないと大蔵省(当時)は頑なに拒否していました。

 

これに対して「何を言っているんだ。被災者を救うために大切だからお願いしているんだ。農家が風水害に遭ったら金を出すだろう。被災者が立ち上がれないような国は、だめな国になるんだよ」と野中大臣は、説き伏せたそうです。

 

 

この話は、被災地の兵庫県ではいまだに語り継がれているようです。

 

その後、橋本内閣では、自民党幹事長代理として「加藤紘一」幹事長を助け、1998年(平成10年)7月30日に自民党最後の単独内閣の小渕内閣の内閣官房長官に就任しました。

 

小渕首相の急死により2000年(平成12年)4月5日に森内閣が組閣されると、自民党の幹事長という要職に就任したのです。

 

初入閣から政権党を取り仕切る自民党幹事長まで、異例のスピードで駆け上がったのです。

 

幹事長に就任した2000年(平成12年)11月に第2次森内閣打倒を目指し「加藤紘一」「山崎拓」らが起こした倒閣運動、いわゆる「加藤の乱」が起きました。

 

この時に、加藤派の「古賀 誠」国会対策委員長を取り込み、加藤派の多くの議員を切り崩し、「加藤の乱」を鎮圧したのです。

 

 

この時に、抜群の情報量と政局感を持つ「政界のスナイパー」と恐れられるようになったのです。

 

12月に自らは「加藤の乱」の騒動の責任を取る形で幹事長を辞任しましたが、後継の幹事長に、この騒動で気脈が通じた「古賀 誠」氏を後継指名して認められたのです。

 

 

「加藤の乱」の鎮圧と幹事長の後継指名を押し通した豪腕は、党内に隠然たる影響力を持つようになり「陰の総理」とまで呼ばれる存在になったわけです。

 

しかし、2003年(平成15年)9月20日に行われた自由民主党総裁選挙では、「藤井孝男」元運輸大臣を担ぎましたが、「小泉純一郎」に大敗しました。

この時の、一部の議員がポスト目当てで「毒まんじゅう」に食いついたという発言をしました。

この「毒まんじゅう」は、流行語大賞に選ばれ、野中氏は、授賞式に出席しました。

 

 

この年の11月の総選挙には出馬をせず政界を引退しました。

 

 

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何故「野中広務」は政治家の道を歩んだのか

「野中広務」氏が政界を引退する直前の2003年(平成15年)9月11日、自民党総務会の席で、「私の最後の発言」と断り話し始めた。

 

「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」と、野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついたそうです。

 

 

麻生氏は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだったそうです。

 

自民党の両院総会に次ぐ意思決定機関であり、常設機関としては党内最高の意思決定機関であり長老と呼ばれる人達が居並ぶ総務会の空気を凍りつかせ、次は総理大臣と言われる人物をうつむきにした迫力はどうして「野中」氏に備わったのでしょうか。

 

野中氏は、1943年(昭和18年)4月に旧制の京都府立園部中学を卒業し、鉄道省(現在のJR)の大阪鉄道局に就職しました。

 

 

1945年3月に陸軍に招集され、陸軍第155師団歩兵452連隊に配属され、高知県で終戦を迎えるまでの間のブランクがありますが、終戦後すぐに復職し、昭和25年の25歳になるまで勤めました。

この大阪鉄道局に勤務していた時に、政治家を志し、政治家のとしての迫力を備えることになるきっかけとなる出来事があったのです。

 

 

その1つは、大阪鉄道局の局長に、後に総理大臣となる「佐藤栄作」氏が赴任し知己を得たことでした。

 

進駐軍が大阪鉄道局に入ってきた時に、女性用のトイレにかくまったり、稟議書に押されていた佐藤氏の印鑑の向きが逆になっていたことを問い正し、「佐藤局長に印鑑の押し方を指南した者がいる」と周囲から冷やかされるような人間関係を築いたのです。

 

 

もう1つは、職場の後輩で、働きながら夜間大学に通える手だてもした、特に可愛がっていた園部中学の後輩になる人物の裏切りでした。

 

頭脳明晰で面倒見の良い性格の野中氏は、抜群に仕事ができて、異例の昇進を遂げようとするまでになっていました。

 

それを妬む職場の先輩に、特に可愛がっていた園部中学の後輩になる人物が「なんであいつだけ特待生みたいに昇給するんだ」「野中さんは大阪におったら飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人だ」という告げ口を聞いてしまったのでした。

 

 

この裏切りに、野中は4日間七転八倒し、悩みました。

 

悩んだ結果が「自分の出自を知ってくれている場所に帰って、そこから人生をやり直してみよう」だったのです。

 

 

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政治の道を志してから

帰郷した野中は、青年団活動に没頭し政治の道を志すようになったのです。

 

この頃の日本の農村は、テレビもなく娯楽は皆無で、ほとんどの若者が青年団活動で余暇を楽しんでいた時代です。

 

青年団活動を通じて地元に情熱を注いだ体験は、その後の政治活動の多大な財産となりました。

 

 

「佐藤栄作」氏を師と仰ぎ、後に総理大臣となった「竹下 登」氏と青年団の活動を通じて知り合い、妻が竹下の掛合中学校の代用教員時代の教え子であることも重なり、終生付き合える肝胆相照らす仲となっていたのです。

 

青年団活動を通じて地元に情熱を注いだ体験から「国会の暴れん坊」の異名を取った「浜田 幸一」氏、村山政権を官房長官として支えた「野坂浩賢」氏と信頼できる人間関係を築いていったのです。

 

この関係は、国会議員になってからの、野中広務氏の大きな武器になりました。

 

 

被差別部落の出身であることを隠さずに、政治活動を続けることは、在日朝鮮人、同和沖縄、ハンセン病などの差別問題等の弱者に寄り添う価値観を、自己の中に強く植え付けられたのです。

 

このように自分自身の体験から常に弱者の側に立つ政治を志し、町会議員、町長、府議会議員とその姿勢を貫いたことは、革新系の蜷川虎三知事と全面対決した府議時代に花が咲き始めたようです。

 

 

「横綱に子供が飛びかかる光景」「議場が蜷川教授の教室」と例えた演説を行い、7期28年続いた革新府政に風穴を開け、1978年(昭和53年)7月の京都知事選で自民党推薦の林田悠紀夫を当選させました。

 

こんな芸当が出来るのは、部落出身者であることを隠さずに政治活動をしてきた、野中氏以外では考えられません。

この功績で、京都府の副知事に就任したのです。

 

 

この時に磨き上げた政治手法と、府議時代の野党の経験にものをいわせ、1994年(平成5年)7月の衆院選で自民党が野党に転落したときに存在感を発揮し、党内外でその存在を大いに知られることになったのです。

 

 

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まとめ

特異なタイプの政治家であったのではないでしょうか。

 

幅広い情報収集と鋭角的な発言で、政敵に切りつける政治手法で「政界のスナイパー」と呼ばれ、タカ派的なイメージがある政治家でした。

 

しかし、自分自身の体験から弱者に寄り添い、平等や平和といった戦後民主主義の価値を重視する姿勢を貫いた政治家でもありました。

このような性質の政治家は他には存在しません。

この意外性が真骨頂の政治家だったのです。

 

 

政界を引退してからも、この真骨頂は、論客として存在感を大いに示し、テレビ番組や講演会などに引っ張りだこだったようです。

 

ひ弱な、二世議員やタレント議員ではなく、常に弱者の立場に立ち、身近な問題に精通した「野中広務」さんのように、逞しく強い政治家の出現が、日本の将来に必要なのではないでしょうか。

 

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