広島東洋カープで活躍し,国民栄誉賞を受賞した衣笠祥雄氏の早すぎる死去を惜しむ

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衣笠祥雄さん死去

 

 

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概略

去る4月23日広島東洋カープで活躍した衣笠祥雄さんが亡くなりました。

 

「鉄人」の愛称で親しまれ、連続試合出場記録でルー・ゲーリッグの記録を更新して世界一(当時)を達成し、国民栄誉賞を受賞しています。

 

衣笠さんは1946年京都府に生まれ、高校野球の名門平安高校に進学し64年、3年生の時に捕手として春夏連続甲子園に出場しています。

 

翌年広島カープに入団、68年からレギュラーとして活躍、以後引退する87年までカープ一筋22年のプロ野球人生を歩みました。

 

その間に達成したのが連続試合出場2215(プロ野球記録)の金字塔です。

 

 

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新人・若手選手時代

衣笠選手の魅力は、豪快なフルスイングから放たれる長打です。

 

ですが高校を卒業して入団した衣笠選手は、バットを振り回すかたわら、契約金で買ったアメ車を乗り回す毎日を送ります。

時折事故を起こすなど、若気の至りで球団から免許を取り上げられています。

 

親会社である東洋工業(当時、現在はマツダ)に遠慮して、球団関係者が国産車を買うのをよそに、高価な外車を乗り回して遊び呆けていたのは、後の衣笠選手のイメージからするととても意外です。

 

 

衣笠選手を発掘したのは、有名な木庭スカウトですが、この頃「このままだとクビ」と注告されます。

そして67年にコーチに就任した根本隆夫(その後監督)氏からは、プロとして生き残るため自分を見つめるよう諭され、20本塁打を目指すことになります。

毎晩のように根本コーチの長時間の説教が続き、プロとして生き残るための必死の努力が続けられた結果、入団4年目の68年にレギュラーに定着、127試合に出場し打率.276でリーグ14位、本塁打21本、打点58の堂々の実績を残します。

 

 

当時の背番号は28で、漫画の鉄人28号にあやかった「鉄人 衣笠」の誕生です。

 

1970年には関根潤三氏がコーチとして入団し、鬼軍曹として衣笠選手を中軸バッターとして育てるためマンツーマンの教育が始まります。

時には徹夜に及ぶ猛練習によって、衣笠選手は豪快なフルスイングとともに、有望な若手から安定して数字を残す頼れる主軸へと成長していきます。

 

 

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主力選手からレジェンドへ

70年代半ばまで広島東洋カープは創設以来、優勝どころか万年Bクラスで、Aクラス入りを目標としながらも、「リーグのお荷物」と陰口を叩かれる弱小球団でした。

しかし衣笠選手が一軍に定着して以後、三村選手や水沼選手、そして山本浩二選手など後の赤ヘル軍団を支える中心選手たちが続々と入団します。

 

これらの選手の成長によりついに1975年、念願のリーグ優勝を成し遂げます。

以後79年から86年まで続くカープの黄金期を、衣笠選手は山本浩二選手との二枚看板で支え続け、87年に現役を引退しました。

 

 

球界を代表するスター選手として数々の記録を積み上げた衣笠選手は、連続試合出場のプロ野球記録が広く知られていますが、通算安打(2543)、通算本塁打(504)、通算打点(1448)は全て歴代10位以内で、中でも500本塁打と200盗塁の達成は張本氏と山本浩二氏とを合わせた3人しか達成していない偉大な記録です。

衣笠選手がいかに長期間にわたって安定して活躍をしてきたかを示す数字です。

 

しかし衣笠選手が記録を残した大選手としてだけではなく、記憶に残る名選手でもあるのは、死球を受けても相手投手を気遣える優しさをファンが知っているからです。

 

 

79年、巨人戦で西本投手から受けた死球では、長年続いた連続試合出場が途絶えるのではと危ぶまれましたが、翌日代打で出場します。

この時は広島側からはもちろん、相手チームの巨人のファンからも大きな拍手と歓声が上がりました。

結果は江川投手にフルスイングの空振りで三球三振を喫しましたが、後に衣笠選手は「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は(昨日死球を受けた)西本君のため」とコメントしています。

 

 

投球による怪我が原因で記録が途切れたとすれば、それを投じた西本投手は非常に責任を感じることになることを気遣い、大丈夫だよ、と痛みをこらえてフルスイングをして見せたわけです。

 

この時ほどのダメージではないにせよ、死球を受けても痛みをこらえながら相手投手に大丈夫なことをつたえて、一塁に向かって駆け出す姿はさわやかさを感じさせるものです。

ベテランとしてチームを引っ張る一方で、スポーツ選手とはどうあるべきかを全国のファンに、とりわけ子供達にはこれ以上ない形で示していたといえます。

 

 

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まとめ

プロ野球史上に不滅の記録を残し、カープファンだけではなく多くの人々から親しまれた衣笠さんですが、71歳での死は惜しまれるとともに、生え抜きで生涯カープ一筋を貫いた衣笠氏に対して、球団との微妙な関係を印象付ける結果を引き起こしました。

 

現役時代は球界を代表する名プレーヤーで、数々の記録を打ち立てたレジェンドである衣笠氏は引退後、監督やコーチとしてユニホームを着ることは一度もありませんでした。

 

山本浩二氏と並ぶ実績と知名度、さらに温和で親しまれる人柄から、当然広島カープの指揮をとっておかしくありません。

 

球場には衣笠さんのユニホーム姿見たさに多くのファンが訪れることが期待されましたが、それはついぞかなわぬこととなりました。

 

スタジアムに掲げられた衣笠選手を讃えるレリーフを見るファンの胸には、何が去来するでしょうか。

 

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5-2:思いつき

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